改良されたダイビング ライセンス
われわれは毎日そうだったという理由だけで、太陽は「つねに」東から上ると主張する必要はない。
その仮説が誤りであると反証されるまでは、とりあえず暫定的にその仮説を受け入れるだけで十分である。
これはそうでもしなければ克服できない論理上の問題を優雅に解決するものだ。
この考え方によって、検証できない仮説でも明確な予測と説明を提供できるようになる。
テストを可能にするには仮説が時間を超越して有効なものでなくてはならない、ということがまだ十分に強調されていないかもしれない。
もしある特定の結果が繰り返すことのできないものであれば、そのテストは最終的なものとはいえない。
しかし、相互作用性は逆転不可能な歴史的なプロセスを生み出すもので、したがって時間を超越して有効な普遍化の作業には適さない。
もっと正確に言えば、相互に複雑に作用し合う出来事についてなされる普遍化は、確定的な予測と説明については使うことができないのである(注)。
この主張はポパーの科学的手法のモデルをいかなる意味でも無効にするものではない。
このモデルはいままで通り、優雅にして完壁に近いものであることに変わりはない。
ただ、相互作用性をもつ現象には適用できないというだけである。
とはいえ、この主張は自然科学と社会科学を分割するものではある。
なぜなら、相互作用性は、ある状況でものを考える参加者が存在する場合にだけ生ずるものだからである。
もちろん、現実を理解するうえで厳格な分割線を引いてしまうのは危険なことである。
私は人文科学を自然科学から引き離そうとしてこの過ちをみずから犯していないだろうか。
社会的な現象は必ずしも相互作用性をもっとは限らない。
参加と認識の両方の機能が働いている状況のもとでさえ、それらの機能が状況と参加者の考え方の双方に影響する相互作用性をもつフィードバック・メヵーズムを発動させるとは限らない。
そのうえ、たとえフィードバックの過程が働いたとしても、現実を大きくねじ曲げることなくその過程を無視することができるかもしれない。
自然科学の手法を社会現象に適用すれば、それだけの価値ある結果が得られる。
それはまさに古典的な経済理論がやろうとしたもので、多くの局面でまことにうまくいっている。
にもかかわらず、自然科学と社会科学の間にはまだ十分に認識されていない基本的な相異がある。
これをさらによく理解するには、科学的観察者と彼らのかかえる主題との関係という第二の問題を検討しなくてはならない。
科学はそれ自体が社会現象で、だからこそ潜在的に相互作用性をもつのである。
科学者は参加者としても観察者としても彼らの扱う主題事象とかかわり合っているが、ポパーのモデルで例示されているように、科学的手法の顕著な特徴は、これらふたつの機能が互いに干渉しない点にある。
科学者の理論は彼らの実験になんの影響も及ぼさない。
その反対に、実験は科学的仮説を判定するための事実を提供する。
事実とその論述の間の境界が画然と区別されている限りは、科学的活動の目的について疑問を挟む余地はない。
それは知識を得ることである。
参加者個人の目標はそれぞれ違うかもしれない。
ある者は知識のための知識を追求するかもしれないし、他にはそれがもたらす利益を求める者や、さらには立身出世を図る者もいよう。
動機はなんであれ、成功の尺度は知識である。
そして知識は客観的な基準だ。
立身出世を求める者は真実の論述をすることによってのみ、そうすることができる。
彼らが実験を偽証すれば、やがてそれはばれることになろう。
自然を自分の意思に従わせよう万とする者はまず知識を得ることによってのみ、そうすることができる。
自然は自然に関するいかなる理論にも関係なく、自然の流れに沿って動く。
したがって、われわれは自然の行動を支配する法則を理解することによってのみ、自然をわれわれの必要に応じさせることができる。
近道はない。
これが認識されるまでには長い時間を要した。
何千年もの問、人々は自然をもっと直接的に動かそうとして、あらゆる形の魔法や宗教的儀式、それに希望的観測を試みてきた。
人々は科学的な手法が課する厳しい規律を受け入れるのをためらった。
科学のしきたりはその優越性を証明するのに長い時間がかかった。
しかし、結局は科学が強力な発見をつぎつぎに生み出したために、昔の魔法や宗教に匹敵するほどの地位を得るに至った。
目的についての合意、ある種のしきたりの受け入れ、客観的基準の利用、そして時間を超越して有効な普遍化を確立する可能性などが組み合わさって、科学を成功に導いたのである。
今日では科学は人類知性の最高の傑作と認められている。
このすばらしい組み合わせも主題事象が相互作用性をもつときは崩れてしまう。
ひとつにはよい結果を得るのがますます難しくなっていることがあげられる。
それというのも、時間を超越して通用する発見、したがって科学的法則の権威を備えたテスト可能な仮説には主題事象が簡単には従わないからである。
証拠をみても、われわれは社会科学の成果が自然科学の成果と比べて分が悪いことをみてとれる。
もうひとつには、客観的な基準、すなわち事実が損なわれていることがあげられる。
これが科学のしきたりを実行に移すことを難しくしている。
事実はそれについて論述することによって影響を受ける。
これは参加者にとつてだけでなく、科学者にとつても等しく言えることである。
ここは重要なポイントである。
これをもっとくわしく説明するため、私は相互作用性にかかわる不確定性を、量子の粒子の行動に観察きれる不確定性と比較してみたい。
不確定性としてはどちらも似ているが、観察者の主題事象に対する関係は異なっている。
量子の粒子の行動はハィゼンベルクの不確定性原理が認められるかどうかには関係なく同じである。
だが、人間の行動が科学的理論の影響を受けることは、他の信ずるところから影響を受けるのと同じである。
たとえば、市場経済の及ぶ範囲は人々が「市場の魔術」を信じるからこそ拡大してきたのである。
自然科学では、理論がその関連する現象を変えることはできないが、社会科学ではそれができる。
これがハィゼンベルクの不確定性にはない新たな不確定要因を生み出す結果になる。
この新たな追加的な不確定要素こそ、自然科学と社会科学の問に亀裂を生む原因なのである。
私は科学者が、たとえば自分たちの予測を秘密にしておくなど、みずからの論述を主題事象から隔絶しておくために特別の用心をしたがることを認める。
だが、なぜそうする必要があるのか。
科学の目的は知識のための知識を得ることなのか、それとも他のなんらかの利益を得るためなのか。
自然科学では、こんな問題は発生しない。
利益はまず知識を得ることによって初めて実現されるからだ。
社会科学ではそうはいかない。
相互作用性が近道を提供してくれるのだ。
ある理論が人々の行動に影響を与えるのに真実である必要はない。
相互作用性は論述と事実の短絡を意味し、その短絡は科学者にも参加者にもありうることでにせの科学的観察者がその意思をみずからの主題事象に押し付けようとした古典的な一例は、銅、鉄、鉛などの卑金属を金(きん)に変えようとした試みである。
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